知識は常識か

手前ミソながら、明日からCS.
頑張れ、楽天。たぶん日本一(笑)
個人的には日韓シリーズのこの街で
今一度、19番のユニホームを見たい。
そう思わんかね、Mきゅん。

さて、タイトルより。
知識は常識か、というコトについて。
個人的には答えはNoだと思ってます。
知識の羅列で常識にはならない。
個人的にはそう思っています。

常識、と思っているコトの前提としているコト。
この物差しが違っている場合が多いコトもある。
結果として話せば解るコトがすべてではないと、
どなたかの名言で、いつも僕の座右の銘でいて、
それゆえ感覚の必要性を説き続けている中でも、
その名言を今一度よく感じるコトも多いなぁと。

何が常識かといえば、固定された常識などなく、
強いて言うなら「誰が考えてもそうでしょ」
というコトで、おおよそ世間の常識と捉えるし、
そりゃ、人の見方の問題で、角度を変えれば
変えた角度の数だけ常識の答えはあるのかも。

しかしココに大きな落とし穴がある気もする。
固定された常識に、変わらない見方という点。

「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」

昔の人はよく解っていた。常に時は流れてて
同じ認識や同じ瞬間などは存在しない。
だから日々変わるコトが常識であり
変わらないと勝手に思い込んでいるのは
人間の勝手な都合であるというコト。

少々大げさな表現かもしれないけど
解りやすくは、明日自分が死ぬとは誰も思わず
明日も変わらぬ今日が存在すると思っている。
それが当たり前。だから感覚が無くなる。
感覚を意識する必要も無いから、からだも無い。

これが人にも、会社にも、世間にもあてはまる。

そして最近よく思う。
決まったコトが続けてくコトがいいコトか?
決めていくコトを考えるコトがいいコトか?

どちらも正解。

で、自分がどちらなのか、というコトを大切に。
骨格は変えない。でも見方を変えるコトは必要。
新しい型や形を考えるコト大事だというコトは
「誰が考えてもそうでしょ」という常識に
当てはまる様な気がするんでね、進みます。

さしあたり、来年からゴヒイキの球団が変わります。
僕の楽天ファンは、今年でlast yearです(笑)
目指せ、日本一。

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