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本当に誰かの役に立つ。

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最終ヒアリングの会場に、1時間前に到着した。1階がカフェだったので、そこで1時間時間を潰した。カフェラテを注文して受け取ってガムシロップを2つ入れた。席に座って作ってきた20枚の資料を見返した。何かが足りないと思ったから最後に1枚そこで作った。結局、最後に作ったこの1枚が、最後の最後で功を奏すコトとなる。

予定の時間は13時から13時半。早く着いたので前倒しでやろうというコトになった。12時50分スタートでプレゼンテーションの持ち時間は20分。質疑応答10で、13時20分に終わろうというスケジュールを言い渡される。最終ヒアリングの部屋から出てきた時間は13時50分。30分オーバーで、外の暑ささながらの議論がそこにはあった。

専門的な中身は別として、誰かの役に立つモノで無ければ創ったり、使ったり、伝えたりの意味は無い様な気がするのだ。専門性のプライド、自己主張、既得権益。確かにそれは、存在して生きる上で切り離せないモノではあるが、本当に誰かの役に立ちたいと考えた時に、そんなもんは実はどうでもよいコトの様に思う。それより、本当に誰かの役に立ちたいと伝えたいのなら、専門性のプライドも自己主張も既得権益も全部が重なる色の濃い部分において自分がやりたいコトがこうだってコトを、自分の血を流しながら平然に、でもきちんと言えるってコトではないかと思う。議論に火をつけた最後の1枚を作っておいてよかったと思う。

最終プレゼンテーションが終わって控え室に戻った。審査員席に座っていた女性が一人控え室を訪ねてきた。30分ほど話をした。というか、一方的な話を聞かされていた。内容はさておきだが、要は「あんたなら、分かってくれる気がした」というコトだった様に思う。

本当に誰かの役に立つかどうかなんてコトは、やってみなければわからない。

挑戦し続ければ、いつか光が当たる。継続し続ければ、きっと新しくなれる。

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6月6日、17時の飛行機に乗って上京する。梅雨から夏のはじめにかけてのこの時期に自分の景色を見る。もう何年続くだろう。十年以上は間違いないな。梅雨の湿度より不快で、夏の日差しより厳しい、挑戦と継続の試練の時期がまさに今。カッコよく書いてるが、そんなにカッコよくは無い。そんな今を眺める周囲の人からよく言われる。そして自分でも思う。なんでこんな大変なコトに挑み、続け、向き合うのか。何度やっても報われず、繰り返し悔しい思いして、度々折々凹んで重力に負けそうな思いをするのがわかっているのにだ。損してるだけだと思う時もある。普通と比較してもっとも遠回りの生き方だと思って自分に迷うコトはしょっちょうあるのだ。たとえば、同じ生き方をしようという人がいれば、間違い無く「あんた、やめておきなさい」と進言すると思う。


そう、それぐらい、この生き方は、実は贅沢で面白くて、独り占めしたくてたまらない魅力のある生き方だからだ。


挑戦し続ければ、いつか光が当たる。継続し続ければきっと新しくなれる。もちろん誰しも人生で挑戦や継続と向き合うコトはある。でも、その挑戦と継続が、他人から見て大変そうに見えるその人の生き方ってはのは、一見損をしている様に見える時もあるのだが、実は何より自分自身を一番楽しんで生きる一番贅沢な生き方だと思っている。実際やってるから分かるコトもある。挑戦や継続が多い分、向き合ってる様子が大変そうな分、その人は他人より多くの花見や夏祭りやクリスマスや冬のイルミネーションを見る機会に恵まれている、そう感じれるのだ。遊ぶ為に我慢して仕事する、世間でそう聞くコトが多い。僕も同じ意見だ。僕も、人より贅沢に、花見や夏祭りやクリスマスや冬のイルミネーションを見て満足する機会が欲しい。ただそれが、花見や夏祭りやクリスマスや冬のイルミネーション以上の機会であればなおのコトいいのだ。だから人より挑戦と継続に向き合う。大変そうに見える場面に向き合う。こんな贅沢な生き方は無いと思うがどうだろう。


今朝方、宅急便の配達の人が段ボール抱えて荷物を届けに来たから、奥の冷蔵庫に冷やしていた缶コーヒーを2本渡して御礼を言った。


そういう土曜日の始まりが一番贅沢ではないかと思うがどうだろう。

動かないなら、動かそうと思わない限り動かない。

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週末、金曜日から仕事で東京に行った。羽田から田町まで電車が都合よくつながって思った以上に早く着く。田町の駅で一件、業者さんに電話した。会社の通信設備を見直そうと思って相談した業者さん。電話の声が弾んでないなぁと思ったら値段の折り合いがつかず作業が困難という。しょーがねー、自分でやるかと腹の中で思いつつ「ご面倒かけましたね、またご縁がありましたら」と電話を切って歩道橋を降りた。東京暑かった。相変わらずカンファレンスビルに着くと汗だくになっている。手持ちの薄くて軽いジャケットが重くてしょーがねー。人いっぱいだし。ビルに入って会議。5年?6年?ぶりに戻ってこられた方が会議におられた。本当お久しぶりですね、といって会議が始まる。会議の内容は守秘義務だから書かない。会議が終わってビルの裏にある居酒屋さんで懇親会。ビルからは歩いて3分ぐらい。参鶏湯が食べれるらしい。僕はそれ、初めて食べた。5年?6年ぶりの方から「5年、6年ぐらい前から地域マネジメントっておっしゃってましたよね?」「それ、とても強く覚えてますよ」「当時は誰もそんなこと言ってなくて、今、みんなが地域でマネジメントって言ってて」「そうそう、アプリ、進行どうですか?」

5年?6年?も前の若気の至りの自分が発した言葉が誰かの印象に残ってるという事実はとても嬉しく感じた。希望だな。普通は未来のことに希望を持つのだと思うのだけど、こういう過去の言葉や出来事の印象と現在の自分が重なってる時も希望と言っていいんじゃないかと思う。人に言わなきゃいいだけの事で、自分の中の自尊の部分で静かに抱きかかえる程度の希望っていうのも触り心地がよい。最近作った新しい25マスの絨毯の様な物をお見せした。「この上でね、動かない物を動かせたらと思って」「例えばね、紙だから動かないと思ってしまえば絶対に動かない。だから紙を動かさず、その紙を見てる人の頭の中の紙を動かせばいいんじゃないかと思って」といった会話をしてみた。今のところ、コレについて書けるのはこの程度。それ以上を僕がまだ考えきれていないから。でも一つ言えるのは「動かないなら、動かそうと思わない限り動かない」というコトだと思う。5年、6年ぐらい前から地域マネジメントっておっしゃってましたよね、って言ってもらえた時の自分もきっとそんなコトを思っていた。責任担保できるイメージなど何も無いんだけど、…

痛みや辛さを感じなくなるまでやれる人間。

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結果をもたらしたいと思いつつ待っている時ほど辛いものはない。あぁ今日も来なかった、明日も来ないだろう。いや明日は来るだろうか。きっと良い結果だ、いやたぶん悪い結果だ、どちらでもいいから早く教えてくれ。いややっぱり明日も来なくていいよ。そんな自問自答を朝から晩まで自分の中で何百回も繰り返す。一言も口にしないままに一日に何百回も繰り返してまた一日過ぎる。そのままでいいと思ってないから、少しでも先に行こう思うから、少しでも先に行こうと思うコトが責任だから。そのままでいいと自分が口にした瞬間、すべてはそのままでよいコトが良い事になってしまうから。これまでもそうやって色んな事が終わってしまったのだと思う。ただ、待つのは本当に辛い。ダメだった時のダメージも大きい。派手に一発食らってノックダウンさせられるのと違う。何発も何発もボディブローを食らって、痛くて息ができなくなって構えが取れなくなってダウンするボクサーの気持ちがわかる。腹から血が出そうな気がして自分に鞭打つコトができなくなる。でも、そういう時に見えてしまう。自分の鞭打つ姿に期待してくれる人が居て、応援してくれる人が居て、その人も自身の未来をそこに重ね合わせ、その人もまた、同じ様に自分に鞭打ちながら僕の大事な人であろうとしてくれている姿が見えてしまう。だからこそ、たかだか待つぐらいで立てないって膝をつく訳にはいかない。たかだか待つぐらいで血を流している場合ではないと思う。痛みを痛みと、辛さを辛さと感じてる場合じゃないと思う。だって、自分の痛みを感じなくするコトができるのが人間。そんなコトを感じなくなるぐらいまでやれるのが人間なんだと思うから。痛かろうがも辛かろうが、時にそんなコトはどっちでもいい。ほら、こうやって書いてるウチに、痛みも辛さも消えた。

行儀よくあっちこっち動きながら順番を待つ。

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列に並び、黙って待つことほど長いもんはない。ましてや、手が届きそうなのに目の前で売り切れてしまったら、そのやるせなさといったらこの上ない。そして、そんな事を、嫌というほど経験してきた。でも、周囲の人ってのは、順番が回ってきた瞬間の派手な部分しか興味や関心はなくって、順番待ちのやるせなさなど知ったこっちゃない。派手な瞬間だけに飛びつく人間と、待ちのやるせなさに付き合える人間と、どっちも良い人だ。悪い事などないのだ。みんな行儀の良い人間だ。ただ、順番待ちの事実ってのは、順番を待ってると長いってコトと、長く待ってる間をただ待ってるだけじゃもったいないから、何かをやるか考えるかって時間にあてがうか…ってコトを考えるかどうかっていう自分自身の問題なんだ。40も半ばに近くなってくると時間がとっても大事に思えてくるから順番待ちを急ぎたくなる。だからこそだ。順番を待ちってのは黙って待ってちゃダメなんだろうと思う。順番は、動いてないと回ってこないコトを僕は知ってる。

市場は自分で作りなさい。

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平成29年4月22日、NPO全国在宅リハビリテーションを考える会の大阪例会に参加する。2回続けてヘルスケアがテーマ。経済産業省、健康ビジネス科学機構、いずれも面白いお話を聞かせて頂いた。僕らの仕事には市場が無い。とても良い事をやっているのだが需要につながらない。どうやったら儲かるんだ?という問いにはいつも答えに詰まってしまう。最近改めて思う。僕の仕事には市場が無いのだ。そこに志はあるが、志でやってるとその行為はタダだと思われてしまう。そこを行政が、国が、公的な支えるというのは間違いでは無いと思うけど、そこを市場にすると時間がかかり過ぎて商売にならない。大阪の例会で話を聞いてる時にずっと「市場は結局自分達で作るしか方法無いんだなと」思ってた。ならば作るしかないのだろう。

21年目の春リエゾン。

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長く書くから滞る訳よね。今年度こそはちゃんと定期的に書こう。いつもそう思う。偉そうなコトを書こうとするから面倒になる。普通のコトだけ書けばいい。何をして、何を考えて、どう感じて、どうしようと思う、ぐらいでよかろう。20年経って綺麗になったリエゾンを撮ってみた。20年前に僕の不愉快の塊だったモノは、今は少しは人の役に立つ様なモノになった様だ。高い所はガチで怖い。それでも登って撮ってみた。悪くないなぁと思った。リエゾンを見て不愉快じゃなかったのは初めての春だった。