究極に不幸な成功を実感する瞬間

早いもので50歳になった。ここでもう26年も過ごした。仕事の時間が人生の半分以上を占める歳になったから敢えて嫌味な言い方をしてみたい。同世代の理学療法士諸君らと比較した時に僕は彼らよりは少々成功した方だ。

何が成功かという定義は人それぞれ違う。金を儲ければ成功と思う者も居れば、責任を避け、出世を求めず生きることと思う者も居る。そして、僕も成功の基準は金でもなければ出世でもないと思う。

私見だが、自分なりの成功論なるモノはあるのでそれを書く。

人は、何気ない日常で十分幸せになれる。過剰に求めない日常がいかに幸せかというコトは、病気や戦争や災害のせいで嫌でもわかる時代になった。そして、それすら気づかず居れたらそれは究極に幸せな人生だと思っていい。無意識に生きれる人生を「日常」といい、その日常はどこかの誰かが人知れずひっそりと創ってくれているというコトにも気づかない。

努力が出来て、笑顔が交わせて「また明日ね」という何気ない日々がそこにある。日常は無意識だからこそ「日常」なのだ。日々に何の違和感も無く、気づきも無く、無事に人生を終えられたらそれは本当に幸せな人生だ。ただ、残念ながら、ごく稀に、その無意識の日常に気付いてしまう人が居る。その日常を維持するコトの難しさや大切さに気づいてしまう人が居る。そして、その人はとても「不幸」なのだ。ただ、不幸な人だって幸せになりたいと思う。でも、もう無意識の日常に気づいてしまっている、そういう人は日常が意識できているので、これまた残念ながら「日常を創らねば」と考えてしまうのだ。

日常を創らねばと考える側で生きる、これが「究極の不幸」であり、結果どうなるかといえば、つまりは、日常のために空間を創り、機会を生み、関係を増やさねばならんので、人がしなくていい努力と責任を背負うハメになる。そして、その究極の不幸にセットになった努力と責任をひっくるめて背負ってる人を見た時に、社会はそれを「成功」と呼ぶ。

僕の成功の基準は金でも出世でもない。

努力と責任がパッケージされた究極の不幸なるものを背負えるコトが成功だ。

そして、その究極に不幸な成功を実感する瞬間が年末年始なのだ。

年賀状を送る先が毎年増えるからだ。

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