持続がオリジナル。

土曜日の朝が賑やかになってしまったものだから、なんとなく書き物をする時間がなく1ヶ月もさぼってしまった。ただ、別に考えていなかったわけでなく、書かない分、色々考えの引き出しは増えている。


studio greenが動き出す。


僕の今は25歳に始まり、37歳で起業して、49歳で城が建つ。どうもコトが起こるはだいたい12年周期。別に意識してる訳ではなかったけど、人に歴史ありだな。そして、数列的に言うなら次は「61歳」という事になるのだが、それはもういいかげんにしていただきたいのだ。


自分が創ってきた25年間全てに誇りを持とう。人、物、金、情報、それは今、全て、ちゃんと価値になっている。25年続けたからだ。持続させたコトそのものに価値がある。今日はその理屈をコネてみたいと思うのだ。


自分が自分の人生を納得させる理由、それは、自分に何かを持続させてきた何かがあるかどうか?というコトだ。

結婚するとか職場が変わるとかそういう個人因子の話では無い。個人の人生要因は、人は概ね満足する。血縁というのは、続ける努力をせずとも死なない限りは無条件に持続するから血縁なのだ。


一方で「社会の中に在る自分」という視点で納得できるかは、人生の豊かさに通じる。


人は、概ねそれを人生の豊かさの指標とする。多くの人は、社会で認められ、評価を得たく、ちやほやされたい。だから、人は自分の社会性を高めようと努力する(稀にそういう努力に全く興味無く何もしない人もいるが)。結論的に言えば、理念や目標という表現は、個人の思想というよりは他人から、社会から評価される為の何かである事を理解しておかねばいけない。

具体的に言おう。「自分がやりたいコトが何か?」というコトを考えるのは、その一方で社会から必要性の評価を得たいコトと同じ。それはみんなわかっている。自己実現なんてのは世界中の会社の新人研修で出てくる単語だからだ。そして人は、自分のやりたいコトを一心に持続させる努力をしたコトで、社会が一定の評価を与えることをだいたい知っている。

ただ、それが難しい。持続させるコトが難しい。なぜなら、持続は、持続の意識がそもそも無いコトが持続の前提条件でもあるからだ。社会から一定評価を得られる持続できてるコト、そのだいたいは、当人は「気付いたら持続していた」程度のコトしか感覚的に持っていない。だから真似ができない、持続が「オリジナル」である一番大きな理由だ。

そして昨今は、その持続の為のオリジナルでさえも世界が17の項目に分類して表現してくれる。世界は親切になった。でも、そうでもしないとこの世界が持続しないというコトを知っている人がいる、という証拠でもあるのだろう。


持続させる為に何かをやる、ではない。

やってきたコトが持続そのものだった、の方が、社会は受入に都合が良い。


時に、studio greenを生み出したリエゾングループは「持続」の象徴。体から血を流しながらやってきたコトは、今や世界の分類とさしてそう変わらず、歴史に迎合されている感じがする。

生き残る為に必死だった25年間のリエゾングループの「持続」というオリジナルは、今や、地域や社会が持続する為に必要な資源となり、街ではその受け入れの準備が粛々と進んでいるという訳だ。


変わることなく続けた25年は強い。

そりゃあ、お祝いぐらいしたって許されるはずなのだ。

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