訓練しろ。

気色悪いぐらい計画通りに進んでる。きっといずれ、どこかに何か落とし穴がある。そう思いたくなる49歳の秋は、やることが今まで以上に多くなったから相当に気をつけている。

20代は怒りと不満で無気力だった。30代で目標と出会い転機を掴まえた。40代は人の倍の苦労と経験したおかげで、結果を形に残せる今に辿り着いた。

50代を目前に、個人的には優越感がある。金や物という事でない。他人の「なぜそんな仕事ばかりするんだ」という問いにようやく答えられそうな今に優越感なのだ。

人並みの余暇はそれなりにあったと思うが、じゃあ人一倍余暇を満喫したか?と問われれば、僕は「仕事しかしていない」と言っていい部類だと思う。

今の時代など特にそうだが、人は、余暇の充実が何となく他人との差別化の材料で、旅行や食事に行った写真を他人に見せたがる。

それはそれで面白い。僕も偶にそんなこともする。出かけもするし、食事にも行く。行った先の出来事を社会にお裾分けする様な写真の貼り方もする。

ただ、僕は、社会にお裾分けをした写真の裏側にある時間で、自分のもう一つの楽しみを貫いた。他人から見れば理解不能な「訓練」の様な時間を持ち続けた。

今、49歳になって自分の人生を振り返る事が多い。そして、この「訓練」が僕の人生においてそれなりに効果的であった事を実感している。


最近、積み上げた人間関係を維持出来ない同世代を、あちらこちらで多く見る。


それは、きっかけは何であれ、折り返している自分の人生のこれから先に未来があるのかないのか信じられなくなっているのだろうと感じる。

歳をとり、文句や説教、他人の批判、昔話か自慢話、横柄や物言いや態度が目立つのは、訓練してない自らの数十年に気づき、振り返っても何も残せてこなかった結果、これからの人生に自分が存在する理由を作れるかどうかの不安と焦りから来るものだと僕は思ってる。

ただ、だからといって他人の人生に口出しはしない。ましてや、僕の人生が正解だとも思ってない。年の取り方は人それぞれで、僕は、僕の年齢の重ね方に一定の満足を得られてよかった、というだけの話を書いている。

ただ、生きるならだ、この年になって人間関係を壊して孤独になるより、目標の達成に向けてみんなで力を合わせる様な生き方の方が賢くて楽しいだろって話だ。

ごく当たり前の話だ。

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