好きでやるというコト。

12月、社長としてはボーナスの支給準備。理学療法士としては東京と大分と二つの大きな仕事。会社も仕事もそれ相当に順調な結果を残しつつ、12月も半ばを過ぎようとしている。ただ、一向に仕事の量は減らないまま。だけど、サイボウズの頻度が少し落ち着いたので(笑)時間的な余裕は少し出来た。



セラピストだったり、社長だったり、プロデューサーだったり先生だったり、その時々で色んな自分にならなきゃいけない毎日があって、問題も一難去ってまた一難の連続の中で、よくまぁなんとか踏ん張ってられるものだと今更ながら自分の体力を立派だと思ってしまう(笑)



少し前の話だけど、一杯飲みながら「あんたはホント好きで仕事やってるよね。好きだから出来るんだよね」と念を押される。昔も今も、結構周りの人によく言われる「あんた、好きでやってるよね」まぁ、確かに間違いではないのだが、最近、逆に疑問に思う「あんたは、好きでやってないのか?」



東京でやった仕事は面白かった。無名のチームが大勢の人に影響を与えてしまったり、チーム自体の存在価値をみんなが共有してキラキラ出来て、結果が残ってまた来年もやるコトになって。お互いを認めあって、お互いに感動して。それって、そこに行き着くまでの努力をみんながそれぞれ重ねてるから面白いのであって。



でもそれって、好きだから努力出来ている。そう思って聞いた時にとても不思議な感じがする「あんた、好きでやってるよね」という質問。やっぱり出てくるのは「じゃあ、あんたは好きでやってないのか?」決して悪く取ってはないが、好きでもないコトに真剣に努力出来るのかどうかが僕には甚だ疑問だったりする。



中学生や高校生が、やりたくもない種目の部活に入って努力できるとは思わない。結果がなかなか出なくて思い悩むコトがあったり、ケガや病気のアクシデントがあって続けるコトへの壁に打ち当たっても、やりたい理由はその種目が好きだから。好きだから上手くなりたい、結果を残したい、その第一人者として認められたい。



それが仕事になったとたんに表現が変わる。好きでやってる事とは違う意識として仕事を捉えて人と比較する。でも、それは間違いではないと思う。世の中の多くの人は、自分の生活の糧を得るために働くのだという常識は社会の常識であり、それを否定するほど僕も子供染みた話はしたくない。



でも、誇りを捨ててほしくない。人にはそれぞれ与えられた時間と空間と関係とがある。そこの中で生きてる自分の役目・役割が理学療法士という名前を持っているなら、その名前を大事にしてほしい。グジグジ言うのは勝手だが「好きでやってるよね」には、その後に「自分は好きじゃないんだけどさ」という韻文を読んでしまう。



もちろん憧れで言ってもらえる時もあるかもしれない。ただそのシチュエーションはこの話とは論点がまったく違う。ある一定の経験や知識を持った人達が、半ば諦め気味に「あんたは好きでやれてるからいいけどさ」と口にするって事は、自分の名前の誇りを捨てる事と同じ事の様に感じる。



少なくとも僕らは、社会的には「好きでやれる環境」を持たせてもらっている。僕だけに限らない。



保険というフレームワークを持ち、専門能力を持つ者としての理解を得て、それ相応の教育環境と未来の必要性も担保されている。何より社会に出たその瞬間から「理学療法士」として認知されるというアドバンテージを持って生きる事を許されているというとてもとても社会から「ひいき」されている存在だ。



それなのに、僕らは色んなコトが「足りない足りない」と言う。自分たちの根本的を見直して、カンガエカタを新しくして、ヤリカタを変えて、試行錯誤のツカイカタを自分たちの名前を背景でデザインしていくコトが好きでやれずに一体なんなんだろうと思う。結果二言目に出るのは「足りない」という文句ばかり。



自分の時間や生活を犠牲にしてよくやってるね、とか。遊んだり、休み無くて大丈夫なの?とか。僕はそうは思わない。1分1秒、長く理学療法士で居たいし、そうじゃない自分で居る時間の方がもったいないって思う。だって、プロ野球選手だったら、1日でも長く現役で居たいと思うのは当然だと思うから。



僕は、理学療法士を好きでやってる。好きが高じてプロになった。プロになった以上、常にそのコトだけを考えて生きていくコトで関わる人を喜ばせる義務がある。でもそれは、僕だけじゃなくて、理学療法士を名乗る人ならば、それは名乗る全員の共通項でなければいけない様な気もする。



今、僕らに求められているコトは、理学療法士が一体何が出来るのか?ってコトを広く社会に伝えていくコト。セラピストという色で、会社や事業というデザインで身近な人へ伝えていくのか、組織や権力を上手く使うデザインで日本中に伝えていくのか、伝わる言葉で次の世代に伝えていくのか。



でも、全ては、元々は、理学療法だから。好きで始めたコトのはずだから。



野球が好きでたまらなくて、好きが高じてプロになった。プロになった以上、人がやらない努力を積んで、僅かなチャンスをモノにして、結果を残して契約更改で評価される。そう考えれば、好きでやってるとか、やってないとか、そんなやり取り自体が滑稽。プロの選手に「野球好きでやってんですか?」と確認したりはしない。



今僕ら全てにに欠けているのは、そんな意識じゃないかな。目の前の人ひとり、今の自分の中にあるモノで納得して満足させようと思うのなら、カンガエカタやヤリカタ、ツカイカタを見直す努力を好きでやる。そこから生まれた工夫が自分の技術の向上であり、結果や評価に結びつく。



そんな根本的な事を忘れてしまって、好きでやるとかやらないとか言う話になっているから、つまらない。



好きでやれるコトがつまらないはずがない。



好きでやれるコトを思い出すコトが、今を良い方向に向かわせる一番の近道なんじゃないかな。

コメント