教育が教えてくれるモノ。

今年いっぱいで学校教員を引退した。



理由は一つ。現状の理学療法士の養成カリキュラムでは、地域リハビリテーションを適切に教授できない。その理由は一つ。そもそもカリキュラム設計の段階で、地域リハビリテーションを教えるコトが想定されていないから出来るはずがないのだ。



社会は「地域」「予防」をニーズとして示し、今朝の報道番組じゃ、次の総理大臣とやらが「日本の医療、看護や介護のサービスは質が高くアジアに、世界に売れる」とのたまう。それなのに、理学療法カリキュラムには地域も予防に含まれず、総理大臣の口から「リハビリテーション」という単語は出てこない。



一人、地域に興味がありますという言葉から親交が始まった学生君が、最近になってやっぱり医療に行って治療手技を学びますと言ってきた。それもメールで。医療や治療をやりたい事が問題ではない。問題はその後の一言で「臨床やりながら、地域もできませんか?」と聞かれた事に愕然した。



彼が悪い訳ではない。ただ、この質問の背景にある図式が、現状をもたらしたガンの要因だと思っている。



臨床をやりながら地域がやれると思う。いや、教育がそう思わせてしまっている。ある意味、彼は被害者。臨床やりつつ地域にも関われるというイメージはあるが、その逆のイメージは皆無だ。どちらかと言うとそこは最後の場所であり、本来とは一線画す世界との認識は多くは否定できないはずだ。



正直、この認識を、こんな身近な距離で感じる事になるとは思っていなかった。だから驚愕だった。その学生君に失望したのではなく、こんな日本の端までがこの認識に犯されている事実に愕然とした。話は簡単である。要は臨床が上で、地域が下なのだ。教育が暗にそう教えている。



この時にハッキリと思った。学校教育に関わっていても、自分の思う地域リハビリテーションは創れない。残念ながらだが、臨床か地域かという選択においては、現状は当人の「覚悟」にその判断を委ねるしかないといのが現状だというコト。



それがゆえに、学生に地域を伝える事は重要と思いつつも、実際に携わってから地域を教育していくコトがさらに重要だというコトを感じてる。地域や予防は、覚悟を持って感じながらでないと、そのカンガエカタもヤリカタも、資源のツカイカタもつかめない。



だけれども、臨床行く彼には心からエールを送りたい。だからといって教育改革制度を訴えデモ行進するつもりもないのだ。新たなカリキュラムを創るコトは僕の仕事ではない。ただ、新たなカリキュラムの必要性をみんなが理解してく働きかけは僕の仕事なのかもしれない。



地域を、予防を、感じながら学んでいく環境を創るコト。これが今一番重要だろうと思う。



年明けから、勉強会再開。

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