当たり前に進化した人で溢れる世界を作っていこうと努力してはどうだろう。

もし何か新しいデザインを閃いたとして、運良く形にできたとして、その時世の中は自分のずっと後ろに居る。情報を集めて頭を捻り、知る人の側に立って考えても、人の反応の得るのは極めて難しい。反応して、行動を起こしてもらうなど実は奇跡に近い。だから、つまりは夢が叶うという現象は、ごくまれに起きる奇跡的な出来事が、奇跡的に同じタイミングで何個か重なって起きた結果、奇跡は奇跡でも、奇跡の濃度が高まった状態の事を指すのではないかと思う。昨日、人の葬式の香典袋に字を書いたのだが、使う筆ペンの墨がとても薄かった。43歳のこの歳まで、香典袋に薄墨という常識を知らなかったというのは甚だお恥ずかしい限りだが、人の死という自然の摂理且つ社会での奇跡的な現象が、薄墨で人の暮らしで常識化される事を知った。勿論、人の死と僕のデザインの奇跡が、同水準でない事ぐらい分かってはいる。ただ、人の死の奇跡が薄墨なら、自分のデザインの奇跡は昔見た海外ドラマの俳優のセリフにあった「闇夜の様な黒」ぐらい真逆の濃さがなければ誰も奇跡とは思わないのかもしれないと感じた。それが証拠に反応が無い。想像を遥かに超えるぐらいに画面は透き通る。世界は死んでるのではないかと思うぐらいだ。僕の世界は遅いし薄い。確かにデザインの問題はあるだろう。それは未熟な部分を素直に認める。ただ一方で、デザインに呼応する側に問題はあろう。言ってる事とやってる事が違うじゃないか!と非難したりするつもりはないのだが、遅く薄いその裏側には『厳しいけどリハビリって大事なはずだし、研究とかもいっぱいあるから、いつか誰かが何とかしてくれるから大丈夫なんじゃないかな』という「空想的・依存的・悲観的・楽観主義」的な新しい時代の病気の様なものが蔓延してる気がする。これは一体誰の責任か。僕が作ったデザインか。それも、年寄りが我らの世界は大丈夫だ、大丈夫だと言い続けたせいか。乱暴者が俺たちはどうがすごいだろ、すごいだろと言い続けたツケか。いずれにせよ時代に取り残されつつある自ら自身を分からないお気楽な主張は、ただただ楽観主義的な次世代を作っただけの様に感じる。結局は、一番先にいっていると思っている自分たちが、実は一番最後尾で反対を向いているだけかもしれない。地域包括ケアシステムだ、共有だ連携だと自らの存在意義とその存在意義のねじ込みばかりを叫ぶ前に、せめて自分専用のiPadを一台を持ち歩くといった当たり前な進化した人で溢れる世界を作っていく努力をしよう。

コメント