僕らはちゃんと辿り着いてる。

たとえば、iTherapyは使うの人のリスクが高い。iPadが要るし、撮影技術も要るし、そもそも協力してくれる(撮影させてくれる)お客さんが必要だし、撮ったデータは個人情報だし、動画データを溜めとくサーバーにもお金かかる。極論、それってリハビリテーションの技術なの?と言われたらそうではない。では、僕はなんでこれをリハビリテーションの技術にしようと思ったのだろう。



それは伝えにくいのだ。誤解をされている。たとえば「リハビリ」と聞くと聞いた人の数だけイメージがあるかもしれない。こんな感じ、あんな感じ、そんな感じ。みんながフワッとしたイメージだけを持っていて、実は誰も明確に伝えられない。そしてさらに、昨日気付いたのだが、実は業界人もリハビリテーションをよく分かっていないのではないかと疑問がわいた。



確かに制度的に、学術的に、技術的に、なぜ必要か、この現象の表現はこうだ、更衣という動作の正しい順序はこうだ、という理屈はあるかもしれない。つまりは教科書的には、理学療法はどうだ、作業療法はどうだ、言語聴覚療法はどうだと言えるのだ。理学療法や作業療法や言語聴覚療法ってのは技術だろう。しかし、リハビリテーションってのはそもそも技術なのか?



たとえば「在宅での理学療法の好事例」なら、素晴らしいピカピカの技術をもった理学療法の、神ROMを撮影して使用前使用後で著しく肩関節が上がった!という事例が好事例かもしれない。しかし、在宅リハビリテーションの好事例とはそんな「神技術」と神技術によって起きる現象を見せる事なのか?「施行後、肩関節屈曲が20度改善」と言って「で?」と言われ続けてきたにも関わらず、今だもってそこにこだわりを持ってる事自体に違和感を感じるのは僕だけか?どうでもよいとは言わないが、しかしそこが時代や環境とマッチしているか?と言われたら全然そうではない気がする。



よく考えた時に恐ろしい事をふと思ってしまった。



誰も、リハビリテーションが何かを知らないのではないか?



リハビリテーションって、何かの理由で色んな事ができなくなった人を応援し、できる様になったら褒め、その人が自信とやる気に満ち溢れて、ちょっと疎遠になってしまったたとえば「家」とか「地域」とか「社会」とかにもう一回触れる事ができる様になる姿そのものでないのか?



がんばった人が最後に笑ってる姿そのものではないのか?



そして、PTOTSTってのは、その人が輝く姿をちょっと遠くの建物の陰から、巨人の星の姉ちゃんの様にそっと眺めて、キラキラしてる人の姿を見てほくそ笑むって所に醍醐味があるんじゃないのか?



理学療法、作業療法、言語聴覚療法は自分たちの目線から自分たちを表現する。リハビリテーションってのは、相手の目線で相手の未来を表現する。これには、決定的な主体と客体の違いがあると思う。なので、すべての議論がかみ合わないのだ。



iTherapyが捉えるのは、その人の意欲や自信だ。



iTherapyは、リハビリテーションを撮る道具なんだ。



思い込みなんかじゃない。



そうさ、僕らはちゃんと辿り着いてる。

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