大事な言葉を捨ててしまおう。

ここ3年ぐらいの仕事で溜めた模造紙を、事業所の床に全部広げた。

模造紙に貼った付箋紙を全部見直し、必要だと思うものだけ残してあとは捨てた。

左が捨てる言葉。右が残った言葉。濃縮された言葉は100分の1ってところか。


くしゃくしゃになってしまった言葉に意味が無いと言ってるのではない。その瞬間瞬間、その時々でくしゃくしゃなった言葉にも確かに意味があったし、思いもあった。

見返して、思い出して、本当にその瞬間瞬間を大事にしたなぁと思うし、その時々で使っていた言葉は、その時の自分が正しいと思った言葉なのだろうと思いながら眺めた。

言葉の中に見えてくる上手くいった事や楽しかった事、充実し、達成したいくつかの事。その過去は全て正しかったと思うし、何も間違ってはいなかった。

でも、その反面、その瞬間瞬間、その時々で使っていた言葉は、今では一つ一つが碇の様に重く、そこに留まろうとする自分の動かない理由になっている様に感じた。

だから今、自分の中から出してきた言葉のすべてを、もう一度イチから考え直す。

今、仕事の仕組みも環境も、個人や人としての生活も、その理由が大きく、そして新しく変わり、そしてその時間は決して留まらない。今こうしている瞬間も進んでいる。

だけど、床一面に敷き詰めた模造紙の中の言葉は碇の様に重く動かず、自分の言葉のはずなのに、自分の進む力を吸い取っている様に感じた。

この言葉、すべて捨てよう。

それは、過去に意味が無かったというコトでない。十分に培った経験を、仕組みや環境、個人や人の理由と同じ様に、僕も新しくしたいと思ったからだ。

自分の中から出した言葉を捨てるというコトが、どれだけ辛いか。それは、言葉を出した本人しか分からないと思う。

でも、新しくなるというコトはそういうコトではないかと思う。変わるコトへの抵抗や反発と同じくらい、言葉を捨てるというコトに向き合うには、強い痛みがある。

連休2日目の土曜の午後、すべての言葉を捨て燃えるゴミの袋へ入れた。

後は、市販の模造紙がスカスカな程度で、先を見据えた何枚かの付箋紙が残った。でも、必要な言葉はちゃんと残っている。

これでいい。これが種だ。

連休はまだ続くらしいから、もう少し自分の身の回りの色々な言葉を捨ててしまい、その後、大事な種に水をやる作業を進めようと思っている。

もっともっと良くなっていく為に、大事な言葉を捨てよう。

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