欲張りだから、そんな「やり切った」と思える人生を送りたい。

たとえば、与えられた仕事を定年までやり切ればそれで自分をやりきった事とする。多くの人は、自分が終わる目印としてそういうコトを考えるのだろうか。もうすぐ44歳になるから何となくその辺のコトが遠い未来の絵空事ではなくなってきている。僕は何をもって「やり切った」と言えるか。今の僕が、自分で「やり切った」と思える瞬間ってどんな瞬間なのだろう。



社会的に偉くなるコトか?といえば、それは全く違う。社長とか理事長とか呼ばれるコトは別に嫌じゃ無くなった。敷居が高くなったね、近寄りがたくなったねと避けられても、それはしょうがない。44歳で事業主だから。そうなるコトが社会の常だから表でも裏でも抵抗感を言われても、それは僕ではなく社会の側に言ってくれと思うのだ。



専門職として認められるコトか?といえば、そんな欲はもう捨てた。職業としてのidentityを捨てたのかと言われたらそんな大げさなコトじゃない。理学療法士は良い仕事だと思っているし息子も目指している訳だから、職業としての価値の連続性を否定したりしない。ただ一つ言えるのは、古い話に興味が無くなったというだけだ。



金儲けか?と言われればそれも無い。金儲けが嫌いなのではなく、金儲けに向くタイプではないと思うから。会社や組織をちゃんと営む為の分はちゃんとしなければと思うけど、自分が儲けたいって欲は無い。もちろん人の金に乗っかってやり切るつもりもない。政治は波が激しく会社の経営より難しいから、そもそもやり切れる気がしない。



確かに考え方やパソコンの技量は若い頃に比べれば多少はマシになったかもしれない。人に見せても恥ずかしく無いぐらいにはなったかもだ。だけど、僕は大して変わっていないから、不足してたり、選んでたり、独占したがりだったり、気になるコトが多すぎたり、そんな所はこの歳になっても全くといっていいほど変わってない。



なので困る。一体何をもって、10年もないぐらいの近い将来で、自分で「やり切った」と考えたらよいのだろうと。



実は「チーム」だと考えている。



自分中に一点の曇りも無い究極のチームを作り上げた時に僕は「やり切った」と思うのではないかと。



当たり前に生活するのに、たとえば地位や立場や専門性や金や政治は有効だから、当たり前に生きてくのに必要な現実的なコトは人に頼らずちゃんと揃えておけばよい。ただ、たとえば、そこを飛び越えた超感覚的な人との関わりを持てたとしたら、それは人生の醍醐味として「やり切った」という自分なりの帰結点を示してくれるのではないかと思う。



究極のチームとは、言えば中高生の部活の様なものかもしれない。



利害も分配も無い。ルールは日常の損得では無く試合の為のルール。勿論平等の中に競争があるのだが、目標は一つ。達成の為の努力を厭わない。他者から冷やかに傍観されればされるだけ本人達はどんどん熱くなる。そして、価値や喜びを自然に、素直に共有して見返りを求め無い。



そして、勝ち取った事実は一生の誇りとなる。



それで「やり切った」なのだろう。



人生で一度、そんなチームを経験した。だから、強く思う。今あるすべてを使って、自分が最後に「やり切った」と思えるチームを作るコト。そして、そのチームと共に、一生の誇りとなる事実を作るコト。そして、その勝ち取った事実を思い返しながら大好きな文章を書ける環境の中で生きるコト。



もう一度やりたい。



やり切ったと思いたい。



僕は欲張りだから、そんな「やり切った」と思える人生を送りたい。

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