人生の4分の1を捧げたストーリーは、どっちに転んでもハッピーエンド。

夏の日差しの半ばを過ぎる時期になった。春先から書き続け、全部で6本。4月に2本、5月に2本、6月に1本、7月に1本。8月末に締め切りが1本あるから、今年は7本。似通ってはいるが、それぞれは微妙に違っている。3本発表があったうち、幸いに2本は採択となった。これから進めていかなきゃいけない。書いた7本にはストーリーがある。結局10年ぐらいは考えただろうか。今月44歳になり、下手をすると人生の4分の1をこのストーリーに捧げた。振り返って大変だったという感想はある。人がしない苦労をしたな、としみじみ思う。それともう一つ、僕は人よりかなり自由にやれたから、大変も苦労も、しなきゃいけないコトだったんだと納得している。もう少し詳しく気持ちを描写するならば、自由にやれたから周囲に感謝しているのは当然のコトとして、それ以上に、自分なりのストーリーを実現しようとした自由に対する代償としての大変や苦労は、背負って当然のコトなのだと納得している。それが必要だと言えたし、やるべきだと言えた。それはとてもスゴいコトだ。だから、人がしない苦労があるのは当然なのだろうし、自分が知らない評価や批判もあまんじて受け止め、僕が最後の力を振り絞って書いているストーリーってのは、それも全部ひっくるめたストーリーなのだ。ちょっと前までは、わからないと言われるとどうやってわかってもらうか努力した。しかし今は、そんな簡単にわかってたまるかと思うコトの方が多い。自分の人生の4分の1を捧げ、人がしない苦労を自ら進んで背負ったストーリーはそんな薄っぺらくもなく、簡単にわかられてしまう様なら、全部をひっくるめたストーリーなんて書けないからだ。そして、人生の4分の1を捧げたそのストーリーも、どうやらそろそろ最終章に入っている。なかなか返事は来ないけど。返事は来ないかもしれないけど。どちらにせよ、それがストーリーの結末となっていくのだろうと思うし、それはきっと、どっちに転んでも僕の人生の4分の1の結論としてハッピーエンドなんだと思っている。人より自由にやれた人生だったから、人がしない苦労を背負って当然で、人生の4分の1の結論は、返事が来ても来なくてもそれはハッピーエンドなのだと思ってよい。

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