無形の形。

プランターに植えた花々が盛っている。近所の大型ホームセンターで、何気に買った花たち。花が売っているといえば、そこしか頭に無かったからそこへ出かけて買ってきた。選ぶ基準は何と無く見栄えのよさそうな物にしようという事ぐらいだった。ただ、土を弄って鉢を作ってなんて事はあまり得意ではなかった。そこまで好きでもなかった。なので結局は余計な物まで沢山買ってしまう。会社の駐車場にある水道の下が物置。そこには、鉢の下に敷く敷石がゴロゴロ余って残っている。見様見真似でプランターに土を盛り、肥料を加えた黒と黒の隙間に苗を挟む。そこから後は水だけ。ひたすら毎日水だけを絶やさぬようにやり続けた。どうした事か、今は、盛った花に、人も、虫も、空気すらもそこに関心を寄せる様になっている。僕は料理が作れない。コーヒーは好きだが焙煎したり煎れたりできない。だから花を作った。それが、僕が自分でcaféをやろうと思って始めた具体的な最初の一歩だ。

理学療法士という資格も、社長という役職も、iTherapyもcaféも。すべては、新しい地域リハビリテーションを具体的にしたらそうなった、という無形の形。iTherapyはその枠は有形だが、実態はその人の暮らし方という無形の形だ。そうやって僕は、この10年ぐらいずっと無形の形を追っている。仲間は多い方がいい。新しい仲間は増やした方がいい。新しい仲間が増えると無形の形は形になろうとするスピードを上げるコトができる。ただ、もちろんついてこれなくなる人もいる。だから理解者がチームであり、チームまでいかない大勢が仲間であり、仲間以外の協力者が居て、協力者ではない傍観者も居る。そして、傍観者の更に外側で無色透明な人たちが居る。つまりはそれが地域であり、無色透明ならそれはそれでよい。地域という単位では、大きな害がなければ、そこまで含めて考える。そして僕は、その地域で無形の形を作り続け、今はcaféの前に花を愛でている。

また一つ大きな挑戦が目の前に立った。やってもやっても失敗失敗で、繰り返す失敗にどれだけダメージがあったかはもう自分でもわからない。血を流して努力しても闇の力が働く出来レースだったり、嘘つかれたり利用されてお金を騙し取られたり、日々繰り返す問題と課題の整理で自分の時間は自分の体を削らないと作れなかったり。よくやった、もう挑戦は終わりにしよう。何度も何度もそう思った。そしてそう思う時に必ず、次の挑戦が舞い込んでくる。まだ終わってないぞ。無形の形がまだあるはずだ。どうせやるならとことんやれよ。自分の声が、自分の中に聞こえてくる。そしてまた、無形の形を創る仕事に向き合うかと腰を上げる。無形の形とは「デザイン」だ。

最近思うのだ。

そろそろ「デザインが仕事です」と言っていいのではないかと。

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