味がついたら、それが最終の着地。

新橋の駅から厚生労働省まではバスで10分。タクシーで行くともっと早い。経済産業省、外務省、国土交通省、財務省、テレビや新聞で見る単語が、現実のビルとなってそこにあった。厚生労働省に到着。外来者入館の受付を済ませたら、首からICカードを下げる。セキュリティシステムにカードをかざしてゲートを通過し、正面のエレベーターから16階に上がる。本当は18階に行きたいけど、今の僕は16階なのだ。この2階分の差をどう埋めればいいかを考えるには、16階まで上がるエレベーターの中の時間はあまりに短かった。エレベーターのドアが開き一歩出ると、暗い廊下の正面に目的の課の名称が書いてある看板が見えた。少し歩く。廊下を右に一回、もう一回右に回ったちょっと先。蛍光灯が一本おきに間引いてある暗い廊下の先に、椅子が幾つか並べてあるのが見えた。椅子の手前には会議室に入る入り口らしきものがあり、そこから少しだけ暗い廊下に光が差していた。

ここ2ヶ月ぐらいか、理屈をこねる仕事が続いた。悪い意味じゃない。一生懸命味の定まらない生クリームを作っていた様な気分なのだ。知見経験を重ねて複雑にしたと言えば聞こえはよいが、つまりは、こだわりと大量生産の両方の視点で、味の定まらない生クリームをひたすら練っていた様だとしか言い様が無い。

たとえば、現場では、こうした方がいい、ああした方がいいという主観とも客観とも言い難い「感触」の様なものが存在する。そして、理屈の引き出しの数や過去の経験の場面数から、感触は、触る人の尺度に委ねられ正負が決まるコトが多い。なので、ああした方がいい、こうした方がいいというどっちも正解に聞こえる場面が繰り返される。そして僕は、それが現場だと考えてる。生クリームであれば、甘さの程度は個々の現場で考えてよい。店によって生クリームの甘さが微妙に違うコトが価値なのだと。

ただ一方で、その微妙な甘さの加減はどうでもいいという客もいる。ケーキと認識できればそれでよいというコトらしい。だから、安かろう美味かろうでよいし、味を統一されなきゃそもそもケーキだとわからないと言う。味を定める経過や、その一つ一つのこだわりなどはどうでもよいから、大量生産、大量消費の為に必要なレシピの数字を正確に出し、無駄のない生産ラインを作る為の申請や提案をしろと言う。非常に短い時間で。

昨日の夜の20時過ぎ、提案書をレターパッックにしたためてポストへ投函した。今年の夏のノルマはこれで終わる。投函した後に、帰る道すがら運転しながら思う。この国の現場は常に矛盾だらけだし、この国の根幹は常に現場と乖離する。伝えきれないし、伝わらないし。一方に個人の損得があり、一方に大人の事情が絡む。頭の中で線を描く。右と左に矢印の先は正反対。まったく向きの違う二つのベクトルを一つにしたい。その真ん中で上に向く矢印を一本描く。その先に何があればよいのか。

自分の仕事で厚生労働省に行く事実を作るコトは、自分の最終着地姿勢だと考えていた。ただ、今回のこれでは到底着地は出来ない。矛盾も乖離も解決してない。それは、演技の途中で鉄棒掴んでぐるぐる回ってる状態で、ここから最終着地に向けて勢いをつけ、フィニッシュに向けた技のイメージを準備している、そんな心境。

そっか、なるほどね。

僕の演技は、そろそろ最終の着地なのだと思った。

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