もういっちょやって経営者で終わろう。

若干緩んだろうか、どうなんだろ。もともとこの街は感染者数も少ないし「感染爆発」的な緊張感というほどこの街の人の心は張り詰めてはない様な気がしてる。船で出た時は一瞬そうなるかと覚悟したが、適切な対応の下で市中感染も無い。ただ、人の動きはあいかわらずで小売やサービス業は相当に苦境。閉塞感漂う感じは今日の天気と同じだ。


国はそのまま、変わるのは常識。


便利な時代になったので、位の高い人の喧嘩や主張が光の速さで手の中で見れてしまう。音も文字もこれを機会に何かを変えていこうぜ、という言い始めの空気を読んでしまう。変えれるきっかけがあるのならより良く進化するコトが良い。ただ多くの喧嘩も主張も、それは思うに日本という国の「常識」を変えていこうと言ってると理解してる。


だから僕は会社という手段を取る。


常識変えるのは大変だ。常識はある種社会の一定のルールとして理解されるが、あるべき常識とは、ほぼ人の数ほどある個人の価値観の集合体だ。社会は、感染症をきっかけに千差万別の常識を一定の幅と長さで、それを国民全体を揃えていこうというのだからかなりの大仕事。発信力がある人にしか出来ない仕事。なので僕は会社の仕事に帰結する。


コトを興すのがすべて政治という訳でもないだろう。


政治力は大事。何度も圧力に屈したからよく理解する。陳腐化する常識を何かのきっかけで定期的に浄化するのは政治の役目だ。ただ、常識の浄化の対極で人々には仕事が必要な訳で、金の為でも生きがいの為でも人が日々仕事に向き合うっコトは常識が変わっても変わらない。だからだ、僕は今更ながら経営者って自覚にとても興味が湧き始めている。


経営者でニッポン変えてみようと思ってもいいさ。


歳も歳で、残る時間を逆算するコトが多くなる。ただ今今ながら「やろうか」と腰を上げた時に自分で何か挑戦できる環境を作っておいてよかった。気力体力が衰え、しがらみが増え、目標も無く老いるより、人が潜らなかった修羅場を抜けてきた今、浄化されていく常識に「経営者」として人生の最後にもう一回付き合うかって思えるコトは幸せだ。


修羅場が舞台。


確かに人が経験しない修羅場をわざわざ背負い込むのが経営者の宿命なので、やり始めて一定期間は損しか感じなかった。ただ、その修羅場を20年ほど繰り返してきて今47歳になったら、自分に残った修羅場は周囲が得る事が出来ない人生最後の舞台の様にも思えてきてる。政治家に成る気なんて微塵も無いが、経営者には成ろうと思えば今なら成れる。


要は「もういっちょやって経営者で終わるか」と思ってるというコトだ。

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