樺島から野母崎、海岸線の道路を戻る車の中で自分に残る時間をどう生きるかを考える。毎週木曜日はそういう風だから一週間の境目の様な感覚で流れていく。
しつこいが僕には時間がそうたくさん残ってない。自分の視力の衰えと周囲の緩やかな見た目の変化で48歳の年齢は自覚するし、自覚するたび人が気づかない程度に静かに焦ってる。
結局、自分が人に誇れることってなんだろう。
専門家です、とはもう言えないな。専門家としての誇りというか「俺はそういう存在だ」と主張するエネルギーは、実はもう6年ぐらい前から全く別のエネルギーに転換した。それを自分が一番わかってる。僕はもう専門家じゃない。専門家の知識を問われると恥ずかしい。
というかそれ、専門家じゃ終われないと考える様になったからだと思う。
いや、違うな。専門家で終わりたいんじゃないと気づいたからだと思う。
ここまで仕上げたら自分を終わる、そう納得する自信のイメージがある。でも、そこに辿り着くまで時間とお金がたくさん必要だってコトが誰よりわかってる。だから、人のコトを気にしてられないと思いながら、人のコトでスピードが上げれない場面で「やれやれ」と思う。
でも、僕は「やれやれ」って思いながら前に進んできた。「やれやれ」と思いながら何となく時と一緒に流れてきた。自分が人に誇れるコトってこの界隈で一番「やれやれ」って思いながら流れ流れて今を創ったってコトなんじゃないかと思う。
足りない足りないと思う毎日から始まった。不測事態ばっかり起きて、お金があったら無くなって、平穏と危機が同時並行で進んで、ずっと怒られて頭を下げ続けて、騙されて時間もお金も奪われて、3千円の出し惜しみで10年来の信頼も裏切られた。人の考えと勝手な感謝の押し売りに付き合い、無知で理不尽な評価で泣いて、馴染む馴染まないの気苦労がずっと絶えず、良い人との出会いがあったと思う反対側で合わない人を去らせた。
そうやって僕は「やれやれ」で進んできた。
そして今、僕の時間はやっぱり少なくなっている。
残された時間が少ないからこそ残った時間を大事に生きる。ちゃんとそう思える様になった。時間がない時間がないという人に「時間は作るものだ!」と説く人がいるが、滑稽だと思う。僕ら神様じゃないんだから人間が時間を作なんて不可能。違うよ、時間は追うから無くなる。そうじゃなくて、時間は準備して迎え入れるモノだと考えたらどうだと思う様になった。
ずっと「やれやれ」と思いながら生きてきたら、時間が少なくなったコトに気づいた。
だから時間が大事だ。ちゃんと準備して予定を立てて、時間を迎え入れるコトが大事だ。大事だと思える時間を、ちゃんと準備ができる48歳になりたいと思う。
人生に「やれやれ」が多いってコトは幸せなコトだ。
人生で「やれやれ」と思うたび、昨日より今日を大事に生きようとカッコつけるでなく本気で少し利口になれる感じがするからだ。
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