俺はこれだけやっている。私は正しくやっている。もっと注目してくれ。好きな様にやらせてもらう。仕事は金のためだ。
この考え、大いに結構。「我が人生の豊かさの為の生業」という考えはまったくもって正論。否定の余地なく、本編において僕は全面的にその考えに賛同したいと思うのだ。
だって実際、僕もそうだ。好き勝手やってる。
さて、しかしだ。
ある場面において、この考えに基づく態度や行動が、人に組織に社会に理解されず、受け入れらず自身に功を奏さないケースがある。今日はそれがなぜかを説こう。
昔、僕の友人で非常に頭の切れる男が居た。関西人でホント愉快に生きている彼は仕事分析の勘が鋭く、彼の視点に気づかされる事が多々あった。
その彼が昔、僕の好き勝手な仕事にこう言ってくれた。
「Mr.KC、これが世に認められる為には、その時までにMr.KCが『自分でなんぼ突っ込むか』で決まりまっせ」
と。
これを言われた当時僕はそれが「金」と思っていた。でも、今は違う。金も当然だが、愉快な関西人が言っていたのは、つまりは「愛」なんだ。
彼が放った「自分でなんぼ突っ込むか?」は自己犠牲的な「愛」のコト。言い換えれば「あんたがこれからこの仕事にどれだけ慈愛の精神持てるかで成功が決まる」というコトだ。
俺はこれだけやっている。私は正しくやっている。もっと注目してくれ。好きな様にやらせてもらう。仕事は金のためだ。この考えを、僕は経営者としてとても興味深く思う。
根拠なく自分に自信があり、慈愛より自己愛を優先させて人と関わると口が軽いので他人はすぐ気づく。営業行くとニーズの無い営利行為が相手されにくいのはそういうことだ。
好き勝手は大いに結構。ただ一方で好き勝手はどれだけ自己犠牲的な「愛」と一緒に提供するか?という懐の深さにおいて、他人が受ける印象が大きく変わっていくというコトだ。
ちなみに、僕は宗教的な愛を言ってるのではない。つまりは、無償の愛でなくリターンバックのある「愛」でよい。極めて現実的に、周囲との調和と仕事の成功に必要な「愛」であってよい。
俺はこれだけやっている。私は正しくやっている。もっと注目してくれ。好きな様にやらせてもらう。仕事は金のためだ。という考えの人に、愛の使い方を間違う人は多い。
愛の使い方を間違う人は、自分への愛の注入ばかりを求めて他人に僅かの愛を配らない。その象徴が「金」。金の扱いが下手なケチは、そもそも愛を知らないので人に相手にされない。
周囲が相手にしないコトに不満を持ち、また周囲が相手にしていないコトに気づかない行動で周囲が相手にしきれない困った行動を無意識に周囲に押し付ける、その原因もまた自己愛。
ただ、誤解の無い様に。僕は自己愛を否定しない。自己愛は大事だ。いたずらに自己愛を無くせば破滅する。守るものは守れ。要は「自己愛のセルフコントロール」が大事だと言ってる。
俺はこれだけやっている。私は正しくやっている。もっと注目してくれ。好きな様にやらせてもらう。仕事は金のためだ。を、上手くやるのには、上手な「愛」の使い方が必要なのだ。
愉快な関西人と一緒に7年前にスタートさせた好き勝手な仕事は、7年間「愛」を注ぎ続けたら、長い期間を経てようやく今小さな芽を出した。愛を注いできたからだ。
楽でなかった7年間。でもその間、慈愛を優先にこの仕事をやり続けたと言えるぐらいはセルフコントロールしつつやってこれた。だから紆余曲折あっても会社はちゃんと今も在る。
僕は、この仕事を通じていろんな人との約束を果たしたかった。もうこの世にいない人との約束も果たさなきゃならなかった。だから僕は7年間、この好き勝手な仕事に愛を注ぎ続けた。
好き勝手の質感は、愛があるかどうかで他人の信頼が決まる。
好き勝手の本質は、愛の使い方を次第で未来の可能性を導く。
好き勝手を成功させるために、自己愛より周囲への愛なんだ。
そもそもウチの会社の理念は「愛」であるコトを思いだそう。
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