五十の天命。

「こんなにワクワクしたのは初めてだ。」

その一言を聞いて、僕はようやく世話になった皆さんに恩返しができると感じた。

孔子の論語の中に「三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。」という教えがある。会社の運営で苦難の渦中にあると「人生、そんなに上手くいかないよ」と思っていたが、40代の最終章に差し掛かった今、この言葉に光を見ている。

50歳で引退し、売れるはずもない小説の勉強を始めようと思ってた。人が定年分まではもう働いたし「いいさ、お前、50歳からは自分の好きな事しろよ」と自分を宥めすかす様に休日の会社で一人、残りの人生の予定をそう考えるコトも多かった。

それがどうだ。もうやり尽くしたと思ってた僕に、社会は「バカ野郎、まだお前の知らないコトが山ほどあんだぞ。」と次の仕事の発注書を突きつけてくる。

自分の心の奥底に残っていた「恩返し」の仕事が残っているだろ、と言わんばかりに突きつける。

そうなのだ。まだ「恩返し」が残っている。

30代で起業し、40代は裏切り、逆境、批判と非難の連続。人が働かない時間を働き続け、何とか自分の信念は曲げずに会社を続けた。

その「惑わず」を支えてくれた多くの人が居る。仕事仲間、家族、信じてくれた社員、お客さんに僕はまだ「恩返し」ができてない。

そしてもう一つ。実は僕が自身が掲げていたはずの「やり残し」を、昨日、銀行と話していて思い出してしまった。

僕は、会社を興す時一つのイメージを掲げていた。そう「日本を、今一度せんたくいたし申候」だ。やろうとしてた事は、この世界の「維新」だったはずなんだ。

そうなんだよ、もう一つ「維新」の仕事が残ってた。

一人でも多くの現場を集めて、一つでも多くの事実を理解し、無理や無駄を省くコトで質と利益を適正にし、新たな武器を持って権力の威圧を排除し、過去のしがらみと歴史の垢を一掃するコトで、働く人を活かし、救える人を増やし、自分たちの未来を創るコトだった。


やってしまった。


自らの五十の天命に「恩返し」と「維新」という言葉を見つけてしまった。


悔しいコトに「恩返し」と「維新」って単語が、自分に似合ってる気がしてならない。


というコトは、やるしかねえじゃん。

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